コラム~僕の女歌人生~

先日、50歳の誕生日を迎えた。

人生の折り返し地点はとうに過ぎて、死に向かってるんだな、と改めて感じる今日この頃。

これまでの自分の人生は、ほぼ女性ボーカル三昧の日々だったな・・・と改めて思う。

ぼちぼち、自分の人生を振り返るような事をしてみてもいいかな?と思い、急にこんな文章を書いている。

今まで、聴いてきた女性ボーカルに関する出来事をここに綴ってみたいと思ってる。

この先どんどん物忘れも激しくなるだろうから(すでに激しいけど)、覚えているうちに覚えている事を記録しておこうと思う。

コラム的な感覚で、気まぐれに更新していけたらと思っている。

興味がある方は、お付き合いいただきたい。

 

2017年4月22日(土曜日) 雨の夜に


第7回「ユーミンとの出会いは『不二家歌謡ベストテン』」

やさしさに包まれたなら/荒井由実(1974) 

作詞・作曲 荒井由実 

 

今更改めて語る事でもないが、僕の女歌人生において、ユーミンというアーティストは欠かす事の出来ない存在である。 

大ファンになったのは1981年に発売され、大ヒットした「守ってあげたい」いう、いかにもありきたりな導入だが、ユーミンの曲が自分の中に侵食してきたのは、日曜日の午前中にニッポン放送で放送されていた「不二家歌謡ベストテン」がきっかけだ。 

 

この番組は1966年12月4日から放送されていた、ロイ・ジェームスがパーソナリティを務めていた音楽番組で、番組のタイトル通り不二家の一社提供。 

CMは当然不二家のお菓子のCMだった。 

そこで流れていたのがユーミンの曲だったのである。 

それは「不二家ソフトエクレア」というソフトキャンディのCMだった。 

このキャンディは1972年~1996年まで販売されていたもので、キャラメルの中にバニラ・チョコレート・コーヒーのクリームが入っていた、子供にとって夢のようなお菓子だった。(2010年には現代版が再発売) 

 

このCMには、ユーミンの曲が3曲使用されていて、第一弾は1974年~使用されていた「やさしさに包まれたなら」。 

1989年の映画「魔女の宅急便」の挿入歌で一躍有名になった曲だが、元々はこのCM用に書き下された曲。 

キャンディのCMだから「包まれたなら」というキーワードが入っているのだそう。 

CMでは  

~目にうつるすべてのものは君のもの~  

という歌詞で歌われている。 

 

第二弾はCMオリジナル・ソングで「ほっぺたにプレゼント」というタイトルがつけられてる。 

~ソフトエクレア 風のセロファンで 包んだ綿雲なの(ソフトエクレア)ほっぺたにプレゼント 不二家ソフト(ソフト)エクレア~ 

という歌詞。 

たったこれだけのフレーズなのに、商品のイメージだけでなく、ユーミンのファンタジックな世界が表現されている素晴らしい1曲だと思う。 

この曲により、ユーミン菌がジワジワと自分の中に侵食してきて、いつの間にかユーミン病に感染されていたようなイメージ(例えが悪いけど)。 

 

そして、ユーミン病が決定的になったのは、第三弾で流れていた曲「まぶしい草野球」だ。 

~やっと気づいてくれた その心のゆくえのように~ 

この短いフレーズにやられてしまった・・・・。 

この曲は、1980年12月発売のアルバム「SURF&SNOW」に収録の1曲 

このサビがすっかり刷り込まれていたので、後に原曲を聴いた時にはちょっとびっくりした記憶がある(Aメロからサビへの展開があまりにも斬新だったので)。

 

パーソナリーティのロイ・ジェームスさんは、1982年にご病気でお若くしてお亡くなりになったが、亡くなる少し前に、六本木の日産ビルの地下にあったお蕎麦屋さんでお見かけしたことがある。 

もしかしたら、自分が初めて生で遭遇した有名人だったかもしれない。


第6回「中島みゆき地獄にハマるきっかけは『金八先生』」

世情/中島みゆき(1978)

作詞・作曲 中島みゆき

 

僕の女歌人生において、中島みゆきというアーティストは欠かせないわけだが「中島みゆき地獄」にどっぷりとハマったのは、やはり「金八先生」がきっかけだろう。

研ナオコや桜田淳子の一連の大ヒット曲(「あばよ」や「しあわせ芝居」など)や「わかれうた」はもちろん耳にしていたが、それらを小学生が堂々と聴くにはあまりにも大人っぽい音楽だったような気がする。

 

そんな自分もやがて中学生になり、その年の秋から放送が始まった「3年B組 金八先生」は中学1年生だった自分にとって衝撃的な内容のドラマだった(特に「十五歳の母」の回)。

第一シリーズの最終回の視聴率は39.9パーセントを記録しており、どれだけ人気ドラマだったかうかがえるだろう。

 

そして、1980年10月に開始した第二シリーズ。

当時中学2年だった僕は、学校生活でかなり傷つく事が多く、このドラマを見る事で心の拠り所を探していたような気がする。

今で言う所の「中二病」だったのかもしれない(当時はそんな言葉はもちろんなかったが)。

そんな第二シリーズも最終回を迎える直前の1981年3月に放送された、「卒業式前の暴力」のエンディングでいきなり画面がスローモーションになり、ギターのイントロが流れ出した。(直江喜一と沖田浩之が警察に連行されるシーン)

それが中島みゆきの「世情」という曲だった。

約6分間ある長い楽曲がフルで流れ出したのだ。

あの衝撃は、当時リアルタイムで見ていた方ならお分かりいただだけると思う。

それから、自分の心の中で中島みゆきが占める割合が高くなったのは言うまでもない。

 

この「世情」は、1978年に発売された中島みゆき4枚目のアルバム「愛していると云ってくれ」のラストに収録されている1曲で、世の中に対するみゆき嬢の鋭い視点が光る名曲である。

このドラマで流れた翌日から、問い合わせが殺到したのはもちろん当然の事で、発売から3年経過したこのアルバムが、再びヒットチャートを賑わすという異例の現象が起きたのである。

 

その後、あの伝説のラジオ番組「中島みゆきのオールナイトニッポン」を初めて聴く事になるわけだが、最初に聴いた時の衝撃をお分かりいただけるだろうか?「世情」を歌ってた人がこのしゃべりかよー!(笑)。

もちろんそんなギャップも当然魅力なわけで、まんまと「中島みゆき地獄」にハマっていったわけである。

 

あの日から、現在に至るまで中島みゆき地獄からは出られないままでずっとファンを続けている。

彼女の曲に関する事は、他にもたくさんあるので、またそれは別の機会に!


第5回「女歌人生の大きなスタートは八神純子がきっかけ」

Be My Best Friend/八神純子(1980)

作詞・作曲 山川恵津子

 

唐突だが、僕がいわゆる「ニューミュージック」というジャンルにハマったのは、八神純子がきっかけである。

1978年に「みずいろの雨」の大ヒットで彼女の存在は認識していたはずだが、まだそれを理解するには当時の僕は子供過ぎたかもしれない。

 

あれは、忘れもしない1981年、雪の降る日曜日の午前中(おそらく1981年2月1日)FMラジオで八神純子のアーティスト特集をしていた。

前年「パープルタウン」という大ヒット曲はあったが、僕の心を鷲掴みにしたのは、それらヒットシングルではなく、前年にオリコンの1位を獲得した大ヒットアルバム「JUNKO THE BEST」に収録されていた「Be My Best Friend」という曲だった。

ボサノヴァタッチの美しい旋律の曲で、作詞・作曲 山川恵津子、編曲 鈴木茂。

ボサノヴァなんてジャンルがあることも知らなかった当時の僕ではあったが、何て美しい曲なんだろうと思い、心が癒されるのを感じた。

 

この「JUNKO THE BEST」というアルバムは、タイトル通りベストアルバムなのだが、構成がとても変わっている。

LPのA面4曲は他の作家の曲による新録音、B面はシングル5曲+アルバム曲という内容で、A面の3曲はいわゆるポプコン系の楽曲だ。

「うまくいかなくても」は柴田容子、「愛色の季節」は風コーラス団、「私の歌の心の世界」は高田真樹子がオリジナル。

そして、僕の人生を変えた曲である「Be My Best Friend」は、山川恵津子の書下ろし曲であった。

10年くらい前に、山川さんとお酒を飲む機会があって(本人は覚えていないと思うけど)、この曲を絶賛すると、「私がJASRACに初めて登録した曲だわ」とおしゃっていたのが印象的だった。

80年代の山川さんのご活躍は、今更ここで説明することもないので割愛。

 

この曲がきっかけとなり、その後の僕はニューミュージックというジャンルに傾倒していくわけだが、それは一過性のものではなく自分の人生そのものになるとは、その時は知る由もなかった。

 

とにもかくにも、この「JUNKO THE BEST」というアルバムが僕の女歌人生の、本格的なスタートとなったのである。


第4回「人生ナンバーワン ドラマは『ちょっとマイウェイ』」

夜明けのマイウェイ/パル(1979) 

作詞・作曲 荒木一郎 

 

皆さんの人生ナンバーワンドラマって何だろうか? 

僕のナンバーワンドラマは1979年10月~1980年3月まで放送されていた「ちょっとマイウェイ」というドラマだ。 

この「ちょっとマイウェイ」は土曜日の21時から日テレで放送されていたドラマで、主役は桃井かおり。 

代官山にある「ひまわり亭」という西洋料理店で繰り広げられる人間模様が、コメディタッチで描かれていて、主題歌はパルという4人のコーラスグループが歌う「夜明けのマイウェイ」という曲だった。 

この曲はオリコンの最高位18位で、約18万枚を売り上げるヒットになっているのだが、僕はこのドラマとこの曲で、何かに目覚めてしまったのである。 

その「何か」を明確に説明する言葉はないんだけど、心のある部分の扉が開き、それが今日現在まで続いているようなそんなイメージ。 

ドラマの劇中にもパルの歌が使用されており、そのアルバムは「カリフォルニア・グレープフルーツ、フレッシュ・オレンジ・ジュース」というタイトルで発売されている。 

代官山という街が舞台にはなっているが、トレンディドラマのようにオシャレな設定ではなかったのにも関わらず、自分の中での都会のイメージはこのドラマの中に出て来る代官山だった。 

このドラマを見て、大人への階段を一歩昇ったと言えばいいのかもしれない。 

 

そしてそれから時は流れ、2006年。 

僕は1990年~続けていたレコード店(ディラーだのバイヤーだのと呼ばれていたが)の仕事にピリオドを打った。 

いろいろなごたごたに巻き込まれ、4月の末にいきなり会社を辞めて晴れてフリーターになったわけだが(笑)、将来の事を考えると不安は不安だった。 

そんな時にちょうどこの「ちょっとマイウェイ」がDVD化されたのであった。 

桃井かおりの主演するドラマは映像化が難しいとされていて「ランデブー」あたりもDVD化されていないはずだ。 

しかし、この「ちょっとマイウェイ」はファンからの署名運動がきっかけで、DVD化になったのである。 

会社を辞めて暇人になった僕は、それから何度となくこのDVDを見る事になるわけだが、見る前に不安な事があった。 

子供の頃に見たドラマを、自分の中で美化させていたんじゃないか? 

今見たら、全然違うものになっているんじゃないか? 

思い出は、自分の中で留めておいた方が美しいのではないか?etc... 

しかし、そんな心配はご無用であった。 

大人になってから見ても、素晴らしいドラマだった。 

このBOXセットにはボーナスディスクが収録されていて、主役の桃井かおりと親友役の研ナオコの対談映像が収録されていた。 

子供の頃は、レストラン内のドタバタを面白おかしく見ていたのだが、この対談の中である事実に気付いてしまった。 

それは「女の友情と女の自立」という裏テーマがあったという事に。

つまり、当時としては斬新で新しいテーマを扱ったドラマだったのだ。 

 

この「ちょっとマイウェイ」がDVDになったのは、ちょうど11年前の今頃。 

あれから紆余曲折があり、何とか生きてきたが、このドラマがなければ潰れていたかもしれないな・・・・とふと思う時がある。 

だから、あれからもこれからも、このドラマは人生ナンバーワンドラマの座は譲らないだろう。いや、きっとそうだ。 


第3回「ピンクレディーをリアルタイムで体感できてよかった」

ペッパー警部/ピンクレディー(1976) 

作詞 阿久悠 作曲 都倉俊一 

 

岩崎宏美に夢中になっていた長井少年は、あいかわらず毎週日曜日に放送されていた「スター誕生!」を欠かさず見ていたわけだが、夏休みも終わりかけのある日の放送で、新人を紹介するコーナーをやっていた。 

たしか後楽園ホールからの中継だったと思うんだけど、新人は客席に作られたステージで歌う事になっていた。 

そこで紹介されたのがピンクレディーである。 

日付を調べてみたんだけど、彼女たちがデビューしたのが1976年8月25日。 

その近辺の日曜日は8月22日か29日なので、おそらくそのどちらかだったと思う。  

観客の中で、超ミニスカートをはいた彼女たちの例のパフォーマンスは、小学校4年生の少年にはいささか刺激的過ぎた。(特にあの股を広げる部分ね) 

パンツ見えないのかな?とか余計な心配をして、画面を凝視できなかったのを覚えている。 

40年以上前のあの日を忘れていないという事は、かなりインパクトがあったのだろう。 

しかし、正統派のヒロリンを好きだった長井少年の瞳には、彼女たちの存在は異色に映っていたと思う。 

当時の子供だっていっぱしの評論家なわけで、これは売れないな・・・と勝手に判断してしまった。 

案の定、このシングルは99位で一旦、100位圏外から落ちているのであった。 

しかし、セカンドシングルの「S・O・S」が約2か月かけてTOP10入りする頃には、「ペッパー警部」も再浮上。 

何とオリコンの4位まで上昇することになるわけである。 

 

そんなピンクレディーを熱狂的に支持しだしたのは、当時の我々小学生だったというのは、今考えても凄く不思議だ。 

子供にとっては、彼女たちは夢を運んできてくれる魔法使いのような存在だったかもしれない。 

当時の2人は、毎日睡眠時間などほぼなく、スケジュール帳には移動時間もなかったと言われている。 

そんな過酷なスケジュールをこなしていても、彼女たちはブラウン管の中では決して疲れを見せなかった。 

子供にとってとにかく絶対的な存在だったんだと思う。 

 

その後の活躍は、今更ここで書く事でもないんだけど、あの「ピンクレディー旋風」をリアルタイムで体感できた時代に生きていた事は、とても誇らしい。 

もちろん、80年代や90年代にだって、いろいろなムーブメントは起きたわけだけど、ピンクレディーほどの強烈なインパクトを超えたものはなかったような気がする(あくまでも個人の感想)。 

だって、ごみ箱までピンクレディーだったんだよ(笑)。 


第2回「イニシャル入りデニムのシャツの意味がわからなかった!」

ファンタジー/岩崎宏美(1976) 

作詞 阿久悠 作曲 筒美京平 

 

1975年に岩崎宏美の大ファンになった僕は、とにかく岩崎宏美の事しか頭にない少年だった。 

「ロマンス」に続く「センチメンタル」も1位を獲得する大ヒットになったわけだが、「センチメンタル」は元々「感傷的な17才」というタイトルだったらしい。 

しかし、良く当たる占い師に、カタカナのタイトルにしたほうが良いと言われたことから、このタイトルに決まったのだとか。 

 

そして、4枚目のシングル「ファンタジー」。 

このシングルもカタカナのタイトルなので、「カタカナ3部作」の3作目という事になるのかな? 

前回も書いたが、長井家はレコードなど気軽に買ってもらえるような裕福な家庭ではなく、音楽の情報はもっぱらTVであった。 

毎週日曜日の11時から放送していた、「スター誕生!」がヒロリンを知ることのできる唯一の情報源。 

「スタ誕」出身のヒロリンは、新曲がリリースされると当然この番組で歌うわけで、それこそTVに噛り付くようにして、この「ファンタジー」を聴いたのは、今でも忘れない。 

画面にテロップが出ていたのか、出ていなかったのかは定かではないが、この曲の歌詞の中に小学3年生には理解不能なワードが出て来た。 

 

~イニシャル入り デニムのシャツ 鏡に映し~ 

 

これは、どういう意味なのか、小学2年生にはまったく想像もつかない。 

あの頃、上野あたりで似顔絵を描いていたおじさんがいたと思うんだけど、そのおじさんに書いてもらった、仮面ライダーの似顔絵が壁に貼ってあって、思わずそこに「イニシャル入りデニムのシャツ」とメモ書きをしたら、親にメチャクチャ怒られた記憶が。 

怒られたのは、せっかく買ってくれた似顔絵に落書きをしたからではなく、「イニシャル入りデニムのシャツ」がいけない言葉で、親の逆鱗に触れたのかもと、変な事を勘ぐる始末(笑)。 

 

そして、この曲「ファンタジー」。 

最高位2位を獲得した大ヒット曲になったのだが、歌詞の内容が不思議。 

2か月前に地下鉄の出口で一目ぼれした彼と、一月後には雨の公園で口づけするという展開も早熟なんじゃないの?と思いきや。その1か月後には、その彼氏がわざわざ窓辺にサヨナラを告げに来るという。 

その間に何があったんだよー。 

現代なら、LINEとかでサヨナラ言われちゃいそうなもんだけど、ちゃんと家まで来てサヨナラ言ってくれるなんて律儀。 

でも別れを告げられても、手を振りながら「好きよ」と告げる主人公。 

IKKO的に言うと「まぼろし~」だったのか? 

阿久先生、これが乙女心というやつなんでしょうか?教えて下さい。 


第1回「女歌との出会いは岩崎宏美」

二重唱 (デュエット)/岩崎宏美(1975)

作詞 阿久悠 作曲 筒美京平

 

僕の女歌人生の始まりは、1975年。 

人生で最初に好きになった歌手が岩崎宏美(敬省略)であった。 

デビュー曲の「二重唱」ではなく、セカンドシングルの「ロマンス」を歌っている姿に痺れたのだと思う。 

何故、そこまで彼女に魅かれていったのか理由はわからないが、子供ながらに素晴らしい歌唱力にショックを受けたのだと思う。 

 

しかし、庶民の家庭に育った僕は、3ヶ月に一度リリースされるシングル盤など買ってもらえるわけもなく、TVやラジオから流れて来る新曲を必死に覚えたものだった。(そもそもレコードプレーヤーもなかったし) 

学校のノートの表紙の裏側に、手書きのディスコグラフィコーナーがあり、新曲が出るとそこに書き加えていったものだった(笑)。 

つまり小学校の頃から、50歳過ぎた今も、やってることはほとんど変わっていないのである。 

 

70年代後半になると、いわゆるミュージックテープというものを、親が買ってくれた事があって、あれは本当に嬉しかった。確か「BEST ONE」というシリーズで、シングル盤がほとんど入っているカセット編集盤だったと思う。 

当時はプレーヤーも持っていないくせに、足しげくレコード屋さんに通い、ジャケットをいつまでも眺めていた。 

それは、とろけるような幸せな時間だった事を思い出す。 

 

平凡で何の取り柄もない長井少年もやがて大人になり、1990年にレコード屋さんに就職することになる。 

日々の忙しさに、ヒロリン(岩崎宏美の愛称)の事もすっかり忘れていたが、1995年の夏に益田宏美から岩崎宏美に名前を戻し、復帰するという情報が入って来た。 

もちろん僕の心は躍った事はいうまでもない。(1995年は、彼女のデビュー20周年イヤーだったのである)。 

初のセルフカヴァー・アルバム「MY GRATITUDE 〜感謝~」の発売を記念して、ビクターで本人を交えた、ディーラー・コンベンションが行われた。 

もちろん参加したのだが、僕が大ファンであるのを認知してくれていたビクターの方が、コンベンション終了後に、何とヒロリンに会わせて下さったのである。 

その時にいただいたサインが、この写真である。 

 

この時の出会いがきっかけとなり、現在までなんとお付き合いが続いている。 

ヒロリンの作品に関しては、まだいろいろと書きたい事があるので、それはまた後日という事で。 

 

とにかく、岩崎宏美という歌手の存在が、僕の人生に大きな影響を与えたという事だけは、紛れもない事実なのである。